2018.7.2

ゲバラとラジオ

いつだってどこの国でだって、チェ・ゲバラは「革命児」「反逆児」として愛されています。

若い男の子なら誰でもある一時期ゲバラに「カブれる」ようですが、若くもなく男の子でもない私も、2011/3/11以降、我が国日本の権力者に対して反発を覚え抵抗を感じるようになってから「革命」に興味を持つようになりました。
特に、キューバ革命。
31歳のチェ・ゲバラと33歳のフィデル・カストロが起こしたキューバ革命。
31歳と33歳という若いふたりがアメリカ支配からの独立を果たした成功の秘密はなんだったのか。
どのようにして革命できたのか。
八方塞がりで戦争へと突き進みそうな危機的状況のこのわたしたちの国で、キューバのようにアメリカ支配から独立することはできるのか。

 『フィデル・カストロ×キューバ革命』『モーターサイクル・ダイアリーズ』『チェ・ゲバラ 伝説になった英雄』『チェ・ゲバラ 革命への道』『コマンダンテ』『チェ 39歳 別れの手紙』沢山の映像を観ました。
『革命戦争回顧録』「チェ・ゲバラの遥かな旅」「チェ・ゲバラ 革命日記」「チェ・ゲバラ わが生涯 ヒューマンフォトドキュメント」たくさんの本を読みました。
こうなったらキューバに行きたくなります。
ゲバラのことをもっともっと、知りたくなります。

で、
2016年9月、
行きました。

 

東京・成田空港からまずは、カナダ・トロントへ。

2時間半のトランジットの後、いよいよ、キューバ・ハバナ。
ほとんど1日かけて、やっと、着きました。
飛行機を降りて、通路を歩いて、階段を下りて、イミグレーションを通って、荷物カウンターへ。ところが、ところが、荷物が出てこない。30分経っても1時間経っても出てこない。1時間半経っても出てこない。
なんなの、どうしたっていうの?
係員の事務所の開けっ放しにしたドアの向こう、壁に「チェ・ゲバラ」の写真が掛かっていることに気がついた。あの、有名な有名な写真。世界中のどこの国でも若い男性が憧れる、あの写真。

この写真を目にした時から帰るまでの7泊8日の時間で、いったいどれだけ多くの「ゲバラ写真」を見たことでしょう。
荷物は、2時間も待たされてから、やっと、出てきました。が、待たせたことへのお詫びもインフォメーションも一切、なし。「サービス」の感覚が違う・・・。
あ、そうだ、ここは社会主義国なのだった~と実感。
社会主義のこの国では教育と医療は無料!
食料も無料に近い値段で配給される。
みんな配給カードを持っていて、配給が実施される日にカードを持って行って受け取ってくる。
今日は鶏肉の配給、明日は石鹸と薬、明後日はパンの配給って具合に。
その人や家族の年齢、病気であるとか妊婦であるとかその人ごとのいろんな状態に合わせてそれぞれ配給の質や量が違うそう。通訳してくれていたミゲルさんに配給カードを見せてもらいました。

バスの運転をしてくれた人が、お兄さんの農場を見学させてくれました。
130町歩あるという広大な土地で、兄弟親戚一族が補い合って農作業。
実に、実に、豊か。
アメリカと国交断絶していた期間に有機農業を徹底させてきたので、どこも無農薬、有機農業です。
国にとって一番大切なのは農業とはっきりしていて、
だから、お医者さんより農家の方が遥かに収入がいいそうです。

この旅では8名のグループで動いていたので、お昼ご飯と夜ご飯は毎回大きなテーブルでセットメニューです。お願いして3回、民営のレストランに行きましたが、それ以外は全て国営のレストラン。国営のレストラン!日本では国営のレストランなんてありませんから、なんだかピンとこないのですが、おもしろいのは各テーブルに向かって演奏するミュージシャンたち。
どの人もみなさん、国家公務員なのです。


ブエナ・ビスタ・ソーシャルクラブ

 

そして、ついに、ついに、革命博物館に行きました。

2日も3日もかけてゆっくり観たかったんですけれど、私がいられたのはたったの3時間半。
なので、ガイドしてくれる人に予めこう、お願いしました。
「グランマ号で上陸後、籠ったシエラ・マエストラでの期間から続いてゲリラ戦に突入して『バチスタ政権』を倒し政府転覆に成功してハバナに凱旋するまでのチェとフィデルのことを知りたいので、そう意識してガイドしてください」
日本語が上手なミゲルさんは効率よく「いかにして革命に成功したのか」に集中してガイドしてくれました。

思わず歓喜の声を上げてしまったのは、これ「Radio Rebelde」!
訳すと「自由へのラジオ」!!

わたしが2年間パーソナリティーをしていたのがwebラジオ「自由なラジオ Light up !」
辞書によると「rebelde」は「反乱」で「自由な」は「libertad」。
正確に言えばちょっと違うけれど、意味したいことはほとんど同じ。
チェ(キューバの人々は愛をこめてゲバラのことを「チェ」と呼びます)
チェをかつて生きていた人として実感でき、うれしかった、うれしかった。

ラジオ放送がキューバ人民に語りかける唯一の方法であると気がついたチェは秘密放送を計画・準備。
支持者の間で人気のあるハバナの人気放送局『ラジオ・マンビ』から、技術者と元新聞記者と元アナウンサーを集め、古いアマチュア無線送信機で放送することになり、
1958年2月24日、初放送。

The first time the station identified itself it went on the air with “…
Aquí Radio Rebelde, the voice of the Sierra Maestra, transmitting for all Cuba on the 20 meter band at 5 and 9 pm daily… I’m station director Capt. Luis Orlando Rodríguez.”

「こちらはラジオ・レベルデ。シエラ・マエストラ。
毎日5時と9時にキューバ全土に20メータ周波数帯で放送しています。
私は放送局の責任者ルイス・オルランド・ロドリゲスです。」
『レベルデ』の最初の責任者ロドリゲスは、放送局設置の声明とキューバ史のその日の有名な出来事を読み上げました。

米国に支援されたバチスタ大統領とカストロ・チェが率いていた共産主義ゲリラとの間の闘いが激しくなるにつれて、ラジオ・レベルデは、ほぼ24時間放送することになっていきます。
カストロが1959年1月1日に「首都ハバナを制圧した!」とリスナーに語った時まで、すべてのゲリラ部隊がラジオ機器を持ち、合計32の小さな反乱軍放送局が実現、自由ネットワークが成立していました。
革命成功の鍵はラジオだった!

  

1973年の『レベルデ』の15周年祝賀会でカストロが語った言葉。
「『ラジオ・レベルデ』は人民に語り掛けるマスコミュニケーションの我々の手段となり、多くの人が聞く放送局になった。それは軍事情報を広める上で非常に重要な役割を果たした。」

Radio Reberdeの現在は、
270人以上の職員がいてニュース番組、スポーツ、ライブ、トークショーを中心に24時間放送しています。

  

実際に使われていた機材。

  

ついでに、これ、聴いてください。
開局一年後、放送に慣れてきたゲバラがラジオ放送している動画、貴重!

おまけにこの動画
国連でチェ・ゲバラがスピーチした時の映像


ゲバラが住んでいたお宅で。

ゲバラを描いたお札

わたしの「ゲバラ熱」を知った通訳のミゲル・バヨナ・アブレウトさんが「みどりさん、オマールさんを紹介できるから会ってみたら…」と言ってくれました。
1959年7月25日、ゲバラが広島を訪問した時、キューバの日本視察団の団長がチェ・ゲバラで、副団長はオマール・フェルナンデス(Omar Felnandez)という人。
現在、93歳でお元気だという。
ミゲルさん自身が革命当時14歳の少年ながら、革命分子として活躍。
騒動の中で殴られたり命の危険を感じたりしたこともあったそう。
ゲバラと共に広島訪問にも同行した方に直接会って当時の話しが聞ける…。
実に実に実現させたかったのですが、帰国後の仕事の都合諸々の都合を変更できず諦めざると得ませんでした。


通訳のミゲルさん

ついでながら笑ってもらえる写真を載せておきます。
手に入れたゲバラ帽を被り銃を持たせてもらってその気になってるわたし。
「危ないヤツ」みたいで笑えるでしょ。

革命広場。
ラジオで情報を得た農民・労働者たちがゲリラ軍に共感して一斉蜂起。100万人を越す人々が集まったと言われる広場。内務省の建物に大きなゲバラ像。

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